雪女


 ししおどしはどっさりと雪を抱えたまま動かない。凍りついた池には生き物の気配はなく、辺りはひどく静かだ。音を立てずに雪は降り続く。はらりはらりと桜の花びらが散っていくように。そんな白銀の世界を彩るように、真っ赤な椿が一輪咲いていた。裸んぼうの木は、白く濁った空にひび割れた模様を作っている。雪に覆われた辺り一面には、びっしりと数えきれないほどの石があった。人の頭ほどの大きさのその石は、風化し、所々欠けていていびつな形をしていた。それらが墓石であると気づく人間が、いったいどれほどいるだろう。
 彼は白いため息をはいた。彼の目の前には雪の積もった墓石と、裸んぼうの木と、一輪の椿と、くすんだ古い縁側がある。古い縁側を持つその家は大変大きく、しかしずいぶんと古いようだった。せっかくの瓦葺きの屋根も、瓦が割れていたり落ちていたりしている。その屋根の上に、たくさんの雪が積もっているのだから、すぐにでもつぶれてしまいそうに見えた。彼はその家の庭の中で、白い息と共に呟く。
「きみは見つかるだろうか」
彼は深い緑のマフラーに、乾いた唇を埋めた。ここはひどく冷えるのだ。



 女は赤い唇から白い息を漏らす。くすんだ縁側はまるでずっと掃除のなされていなかったように汚い。ひどく冷えたつま先に力を入れて、女は近くの部屋の襖をひく。白かった襖はいまや黄ばんでいて、やはり、汚ならしい印象を受けた。すっと小さな音を立てて開いた襖の向こうは、殺風景で飾り気のない部屋だった。薄くほこりのかぶった畳の上には、木製の小さなテーブルがひとつ、置いてあるだけだ。女は絨毯のように敷かれたほこりも気にせず部屋の中を進み、奥の、隣の部屋へ続く襖をひいた。
 そこはひどく荒らされていた。踏み倒された襖には血がこびりついて固まっている。手形、足形、返り血のようなものと、形は様々だ。人の形をとっているものもあった。その襖にも、やはり、ほこりが積もっている。相当な時間の経過の証だった。
 そして、その部屋の中央には、一人の赤ん坊がいた。その姿をとらえた瞬間、女はうっとりと目を細める。
「ここにいたのね、わたしのかわいい赤ちゃん!」
赤ん坊は泣きもしないし、笑いもしない。ぎゅっと体を丸めたままだ。干からびて、ミイラ化した赤ん坊は、ほとんど骨のような体つきをしている。汚れたその頭は黄ばんだ頭蓋骨がむき出しだ。 赤ん坊のミイラは、凄絶な殺人現場から母親を求めて動くことはなかった。しかし、女は赤ん坊をいとおしそうに抱き上げる。
「わたしの愛しい子! これからはずっと一緒だからね」
まるで、親子の、感動の再会であるように。



 彼は履き物を脱ぐかどうかをためらい、結局土足のまま縁側から上がりこんだ。家の中はどこもかしこもほこりまみれである。薄く白い床に足跡をつけつつ、彼は廊下を歩いた。ごつごつ、と足音がやけに響く。そこへ、すっと静かに襖が開いた。彼は驚いてその襖を凝視する。出てきたのは女だった。鮮やかな赤色の着物をまとい、真っ赤な唇が印象的な、美しいと形容しても問題ない女だ。なぜ、女がこんなところに、と考える前に、彼は女の抱えるものに目を奪われていた。小さく丸まった赤ん坊のミイラだ。ただでさえ低い気温が、さらに下がったような気がした。彼は背筋をつうっと流れる鳥肌と悪寒に歯が鳴りそうだった。あごに力を入れ、歯をくいしばる。
「もし」
女が赤い唇を開いた。穏やかで、それでいて艶のある声だ。
「こんなところへ、いったい何をしにいらっしゃったのですか?」
女の質問に、彼は一瞬口ごもる。
「それは……、それは、こんなところに、人がいると聞いたもので……」
「あら、それにしたって勝手に上がり込んで、おまけに土足だなんて、失礼だとはお思いにならないかしら」
しかし、女は怒った様子もなく、静かに笑う。くすくす、とそれは上品だ。育ちのよさを垣間見せる女だったが、やはり腕の中の赤子のミイラの異質さだけが浮いていた。
「……たしかに、申し訳ありませんでした。何しろ人がいるなんて信じがたかったもので」
「あら、本当は別にいいのよ。寒いですけど、どうぞお掛けになったら? 素敵なお庭でしょう」
「ええ、とても。ところで、雪かきなどはなされないのですか?」
「人手が足りないので」
彼はあなた一人だけですか、と尋ねようとして、口を閉じた。

 ここは幽霊屋敷として、地元の人間の間ではとても有名な場所だった。なんでも、一年中雪が降り積もっていて、寂れた汚い屋敷には一人の女の幽霊がいるという。そして、そこを訪ねた人間が帰ってきたことは一度もない、とも。そんなところへ彼が来た理由は、いたずらな好奇心でも、化け物を祓ってやろうという野心でもない。

 「ところで、あなたはいつお帰りに?」
女は抱えた赤ん坊の額を撫でながら言った。彼は、ここへ来た理由を話すべきか話さないべきか考える。しかし、ミイラを抱えた女と、こうして話しているだけではどうしようもないと思った。
「……探しているんです」
「なにを?」
「人です。……妻なんですよ」
「あら、奥さん? どんな方かしら」
女はにやり、と口の端をつりあげた。赤い唇がゆるい弧をえがき、長いまつげが影を落とす。彼はその笑顔を見て、ひやりとせずにはいられなかった。女の凄艶な笑みに彼は圧倒されていた。
「どんなって……、温かいところで育ったので、少し肌が黒くて、明るくて、そうですね、かわいらしいですよ」
「その方はここを訪ねたの?」
「……そうらしいです」
「そう……なら」
女は音を立てずに立ち上がった。そしてゆっくりと腕を持ち上げる。左手は赤ん坊をしっかりと支えていた。女は、ほこりのかぶった縁側の外をまっすぐ指差した。その指先をたどると、庭の、白い雪の山が見える。
「あそこのどこかにいるんじゃないかしら」
女の顔は見えない。切り揃えられた横髪が女の顔を隠す。代わりに、彼には赤ん坊のミイラが泣いたように聞こえた。
 あそこはお墓よ、と女は言った。彼は女と雪の山を交互に見ている。女は続ける。でもわたしも、そろそろ寿命だわ。
「あなたを食べて延命するかしら。わたしとわたしのかわいい赤ちゃんのために」
女は赤い口を開ける。開いた口の中は深い闇のようで、そこから覗く舌は気味の悪いほど真っ赤だった。

 彼は、慌てて立ち上がり庭へ飛び出た。
「やはり、あなたは人でないのですね」
「わたしにもわからないわ」
気温がだんだんと下がってゆく。あまりの寒さに彼は凍りついてそのままでもいいかと考えてしまうくらいだ。しかし、彼は彼の一番愛する人のためにここに来たのだ。妻と、我が子のために。
 女がゆっくりと顔をあげた。美しい女の顔は歪んでいる。顔の半分はただれ、片方の瞳は溶けて、まぶたがくっついてしまっている。荒れた歯茎をむき出しにしながら女は笑う。
「逃げないでちょうだいよ! あなたは奥さんのところへ行けばいいじゃない!」
彼は後ずさる。足に当たったのはたくさんの墓石たちだった。この下に埋まっているだろう妻を思い、彼は底知れぬ恐怖に襲われる。じわじわと這い上がってくる恐怖、彼のまぶたの裏では妻が笑う。

 ああ、と彼は気づいてしまった。そして震える唇を開く。寒さで震えているのか、恐怖で震えているのか、それは彼にもわからない。それでも彼は唇の端をあげ、震える声で笑った。
「だけどあなたの抱いている子どもは、あなたの子ではない」
ミイラの子どもは答えられない。女は目を大きく開いていた。閉じたままの片方のまぶたはちぎれるように開いた。女の片目は溶けて存在しない。
「あなたは子どもを流した、そうではありませんか」
その瞬間、ばたばたばた、と激しく床を叩くと音が響いた。女の足の間からは血液が流れている。ばたばたと堕ちる形を成すことができなかった、小さな生き物。女は大粒の涙をぼろりとこぼして、それから腕の中のミイラを取り落とした。赤ん坊のミイラは、床に激しく頭をぶつけ、もろく崩れた。まるで粘土細工の人形が壊れるようなあっけなさと気味の悪さの混じる光景だった。
 彼は泣き崩れた女から目を離して、自らの足元を見た。人の形を完璧にとどめた手が、彼の足をつかんでいる。強く、痛みを感じるほどに。すこし色の黒い、細い手。それはきっと妻の思いの強さと、亡くなったすべての人の思いだと思った。
 足をつかまれたまま、女の方へ視線を戻すと、すでに女は消えていた。床に残った血液がやけに生々しい。



 雪は、いつの間にか、やんでいた。

 彼は妻にやったよ、と言ってあげたいと思ったが、そんなことはもう言えないな、と苦笑した。
 幾本もの腕が、彼の足をつかんでいる。
 彼の足はくるぶしが確認できないほどには沈み込んでいた。
 いつの間にか、壊れてしまったはずの彼の子どものミイラは、足元でうずくまっていた。そして、彼が一度も聞くことのできなかった声がする。けたけたと、子どもの高い笑い声だ。



-----(了)


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