フランチックの心臓


 心臓がきみの胸を打つ。止まないノックの音だ。きみはひどく興奮している。汗をかいていて、息も荒い。ぎゅっと握りしめた手も湿っている。涙だって、今にもあふれてしまいそうだ。しかし、もうすぐドアは壊れてしまうだろう。古いのだ、とても。
 どうするかい、殺してしまうかい。きみは考えている。自分がこれ以上傷つかずに生きる方法を。どうするかい、どうするかい。古いドアを一枚隔てた先には、きみの両親がいるだろう。そしてきみとおんなじことを考えている。罵声。罵声。ノックの音。きみの心臓の鼓動。ノックの音。ドアが軋む。ノックの音。
 そして、ドアは壊れる。きみの悲鳴にも似た咆哮。震えた手。家中を貫く涙のかおり。


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 メランコリィは母譲りの美しい金髪を振り乱して、汚い床に倒れこんだ。瞳に恐怖をたっぷり浮かべて、傷ついた自分の体も構わず恐怖から逃れようともがく。フランツ、ああ、フランツ助けて。唇だけを小さく動かして。父親にフランツの存在を知らせてはいけない。メランコリィは耐える。たくさんの暴力とひどい仕打ちに。きみは知らない。メランコリィが今まさに、助けを呼んでいることに。



 きみはいつだって誰かに罵られて生きている。だから、きみは少し気がちがっている。どうするかい、殺してしまうかい。きみはつねに考えている。いや、こいつはまだ殺さない! いつでも、どこででも。

 メランコリィは父親に殴られて生きている。たくさんの傷もたくさんの痣も、その細い体の色が変わってしまいそうなくらいに。だから、メランコリィはいつも憂うつだ。メランコリィは考えている。どうするかい、死んでしまうかい。いいや、フランツがいてくれている。きみはメランコリィのただひとつの救いだ。たとえ、フランケンシュタイン・モンスターなんて自称していても。



 「メランコリィ、きみ、また怪我が増えたんじゃない?」
冷たい風がきみたちをつつく。メランコリィは薄い生地を抜ける風の冷たさに肩をすくめた。空は白い。雲が重たげに垂れている。ひび割れたコンクリートは座るだけできみたちの体温を奪っていくだろう。ここは半壊した廃墟だ。家のあるじは死んでしまっている。ここではよくあることだ、だれも気にしない。それは飢えであったり、理由はさまざまだ。その瓦礫の塊の周りに民家はない。この辺りはずいぶん昔に廃れてしまった。きみと、メランコリィの住んでいる村にも住人は少ない。だれかの両手が三組あれば足りるくらいに。
 きみはそこで逢うたびにきみはメランコリィの心配をする。メランコリィの華奢な体には、毎日飽きることなく新しい傷が足されているからだ。メランコリィは口をあげて小さく笑う。口の端には痛々しい血の跡が残っていた。
「どうかな」
「増えてるよ、きっときみの父親だろう! かわいそうに、ぼくが守ってあげられたらどんなにいいだろう!」
きみは大げさなまでに悲しむ。まるで自分のことのように。きみはいつだって正直なのだ。
「いいのよ、フランツ。あたし平気よ」
「メランコリィ、無理はしてはいけない。まったくひどいやつだ、きみの父親は!」
そしてきみは考えるのだ。どうするかい、殺してしまうかい。メランコリィを救うために。きみは罪を重ねるかい。
 きみはとても短絡的だ。

 そうだね、殺してしまおう!



 メランコリィとの別れ際に、きみは少し口を開き、そして閉じた。太陽の茜色は白く濁った雲に遮られる。青白く、暗い。メランコリィはますます青く見える顔で、へたくそにほほえんだ。別れの合図だ、メランコリィは今日も父親に殴られに帰ってゆく。きみは迷った末に、とうとう口を開いた。少しだけ緊張をはらんだ声音だ。
「メランコリィ、今日は家に帰らない方がいい。きみはひどく傷ついている。ぼくの、……ぼくの家においで」
「フランツ、でも帰らないとパパが怒るのよ。それにフランツのパパとママも、わたしのことが嫌いに決まってるわ」
メランコリィは困ったように言う。きみはたいへん嬉しそうに、そして自慢げに笑って答えた。 「大丈夫! ぼくをつくったやつらはもういないからね」
きみの両親は眠っている。永遠に、きみの家の押し入れの中で。きみはその二人の有り様を知らない。きみは見たくないのだ、きみの創造主を。腐臭に慣れたきみの鼻は、きみの両親のにおいを嗅ぎとれない。
「でも……でも、もしパパにフランツのことを知られてしまったら、きっとあなたもひどい目に遭うわ」
「平気さ、ねえメランコリィ」
きみはいたずらっ子のような笑顔のまま声をひそめる。そうして、いいかいメランコリィと続けた。
「ぼくはきみを助けたいんだ」
わかるね、ときみは丁寧に区切りをいれる。メランコリィはおずおずとうなずく。きみはまた笑みを深めた。見えない太陽が消えていく。辺りは黒く塗りつぶされつつある。乾いた冬の空気を裂く、きみの声。
「メランコリィ、きみの父さんを殺してしまわないか!」



 メランコリィは考える。それはずっと前のことで、ごく最近のことである。メランコリィは父親から受けたたくさんの仕打ちを思い出していた。暴行、暴行。思えばすべて悪い夢のような人生だった。パパがパパらしいことをしたかしら。メランコリィの思考は過去を一周し、そして戻ってくる。再度、問う。パパがパパらしいことをしたかしら。わたしはパパが必要かしら。

 そして答えは、否。


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 「フランツ……、フランツ、本当にパパを殺すことができるの? フランツは大丈夫なの?」
メランコリィの弱々しい声は、ますますきみの気を大きくさせる。きみはとても単純だ。少し頼られると、とたんに自分が強くなったように感じる。
 きみとメランコリィは暗い夜道を歩いていた。地面はごつごつとして歩きにくい。メランコリィは数回つまずき、そっときみに腕をひかれる。日が沈み、ますます風は冷たく、きみたちを凍えさせてやろうと、通り抜ける。月明かりはほとんど感じられない。雲は暗く空を覆ったままだ。ざわざわとだれかの噂話をする林。きみとメランコリィの村のすぐ近くに広く不気味な林が広がっている。きみたちの話をだれかに知らせているのかもしれない。
 きみは銃を持っていた。正確には、きみの両親のものだ。弾は入っている。ずしりと重い鉄の筒は、ますますきみの気を大きくさせるだけだった。銃を出すとき、きみは一度、きみの両親を見た。死体にはうじがたかっていて、どんどん原型をなくしていっているようだ。それを見て、きみは。
 きみは、笑った。大きく声をあげて!



 きみは支度を整えた。そういっても、大した持ち物はその銃、一丁だけ。きみは口元を引き締める。ぼくは行ってくるよ。メランコリィはすがりつくような瞳で見ている。外はとても不気味に感じられた。きみたちはメランコリィの家のすぐそばの木陰に隠れている。ひそひそと、今度はだれにも聞かれないように。
「あ、あたしも行きたい……!」
荒れたメランコリィの手はきみの腕にまわされた。おいていかないで、とでも言うように。
「メランコリィ、それはとても危険だ。でも、もしそれでもきみが構わないと言うのなら、少し手伝ってくれないかい」
メランコリィはうなずく。しかし顔色はあまりよくないままだった。きみは気づかない。きみは興奮している。気が狂ってしまいそうなほどに。
「メランコリィ、きみがぼくの殺しのライセンスだ!」



 「パ……パパ、帰ったわ、あたしよ……」
メランコリィはおびえている。だから、きみの背中に隠れたまま狭く汚い玄関口で声を上げる。次に飛んでくる罵声を覚悟して。その次の拳を予想して。さらにかれの結末を考えて。そして、メランコリィの予想通り、遅ぇよクソ、と罵声が飛んでくる。次々と途切れることなく。響く、足音、足音、足音。廊下の暗闇から、どんどん近くなってゆく。大きくなる。その音にきみはひどく興奮している。心臓が早鐘を打っている。足音よりもせわしなく。ノックの音だ。
 ノックの音、ああ、きみは、ノックの音、このドアが壊れれば、ノックの音、殺すしか、ノックの音、殺されて、ノックの音。ノックの音。
 きみは思い出す。ノックの音はきみの引き金だ。それは少し前のきみ。ドアの一枚隔てた先にはきみの両親がいる。きっときみを殺しに来た。きみは、そして、その、きみの創造主を。

 きみは半狂乱になって叫んだ、いつかの時のように、獣みたいに!



 パン、と拍手の音が。クラッカーの鳴る音が、大きく大きく。祝福のようだ、メランコリィへの、そしてきみへの。
 一回? 二回? いいや、六回。



 メランコリィの父親は死んでいた。首に一発、胸に一発、腹に二発。張り裂けた腹のその中で、血液が生き物のようにうねり、流れている。きみはとうとうやったのだ。メランコリィ、メランコリィ、ぼくはやったよ、メランコリィ、きみは自由だ!

 呆然と、目の前の父親だったものに目を向けて、メランコリィは動かない。メランコリィの父親は、きみが殺したし、メランコリィが殺したようでもある。メランコリィの瞳から涙は流れない。しかし、その身体はぶるぶると震えている。殺してしまった、殺してしまった!  きみは、メランコリィに気づかない。きみは今、とても嬉しく思っている。まるできみが解放されたあの日のように。
「メランコリィ、メランコリィ! ぼくはやったよ、メランコリィ、きみは自由だ、メランコリィ!」
そうして、きみはメランコリィを抱きしめた。
 きみの暖かさに、メランコリィはほっと息をついた。そしてきみの背中に手を回す。ぎゅっとくっついて泣き出しそうな唇を噛んで。きみは気づかない。きみには気づくことができない。なぜなら、きみにはメランコリィの気持ちがわからない!

 「メランコリィ、ぼくはきみが大好きだ!」
そう言って、きみの心臓はまた忙しくなる。メランコリィ、メランコリィ、大好きなんだ。駆け足の心臓。きみの胸をたたく。どんどん、どんどん。ノックの音だ。ああ、あの日のように、止まないノックの音だ。きみはこわくなる。ノックの音はきみを壊す。壊れてしまうドア。ノックの音、助けてと消えた声、ノックの向こう側の声。出てきな、お前なんか――……。

 「フランツ、フランツ……わたしも好きよ、あなたのことが!」

 ノックの音を遮って、メランコリィは言った! きみの耳はメランコリィのことばをひろう。ノックの音は止んでいた。きみの心臓がどくんどくんと高鳴っているだけだ。


 メランコリィはきみの耳元で、へたくそな笑顔を見せるだろう。





-----(了)



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