迷走列車


 ただいまぼくは迷子である。



 ガタガタと揺れる車内。二人掛けの青い座席は、誰もが一度は見たことのある電車のそれだ。ぼくは通路側に腰掛け、彼女は窓側に座っていた。するすると流れていく景色。目で何かを追おうとすると酔ってしまいそうだ。街燈の光がするすると流れていく。星は見えない。
 一体どうして、ぼくは列車に乗っているのか。この列車はどこへ向かっているのか。ぼくには皆目検討もつかない。きっと彼女が何かしたのだろうが、それにしたって、ぼくが列車に乗るまでの経緯を覚えていないというのは不自然だ。もしかしたらぼくには何かあって、記憶がなくなってしまっているのかもしれない。しかし、隣に座る彼女、椎名のことは覚えているのだ。その事実にますますぼくは混乱した。空白の時間。少し前まで、椎名とぼくの部屋にいたはずなのに。


 「ねえ、友野」
彼女が窓から視線を外した。そして伏し目がちに話す。黒い艶やかな髪がさらりとその横顔を隠した。残念、美しい横顔だったのに。
「わたしの左手、どこか知らない?」
彼女の表情は見えない。ひどく悩ましげに、それでいて、自転車の鍵をなくしてしまった時のような声のトーンだ。大切だけど、なくなってしまったのなら仕方ない、と言うように。
「は?」
「『は?』じゃなくて、左手よ左手。利き手だからなくなっちゃうと不便なの。だってほとんど何にもできないじゃない?」
ぼくが聞きたいのはそういうことではない。左手がなくなるという、奇妙かつ不自然で気味の悪い出来事が起こったということについて聞きたいのだ。
「ひ、左手って……」
「なあに? 友野知ってるの? 本当、どこに行っちゃったんだろう」
椎名との会話が、驚くほどに噛み合わなくて、ぼくは口を開くのをやめた。代わりに、なくしたという、椎名の左手を見る。細く白く、骨ばった手首。しかしそこから先は確かに、何もなかった。まっすぐで、むしろきれいな切断面。断面は一体どうなっているのか興味はあったが、椎名の腕を取ってまで覗いてみたいとは思わなかった。とりあえず、見る限りで、椎名の血液が流れたようすは見当たらない。血が流れたわけではないのか、という安堵と、不自然すぎる出来事に対する疑問が、ぼくの中をぐるぐると回った。そして、それはうまく消化されることなく、重しのようにぼくの中に残ってしまった。ずんとする胃の中と、ねっとりと重たい電車の空気。

 一体何が起こっているのだろう。ぼくはもう一度椎名を見たが、椎名はすでに窓の外へ視線を向けていた。妬けるな、と思った。もう少しくらいぼくを見てくれたっていいのに。左手のことをもっと話してくれたっていいのに。それはとてもくだらなくって、それでいて結構重要だったりすることだ。椎名を隠す髪の毛をかきあげてやろうと、ぼくは無意識に左手を伸ばした。その時目に入った銀色の輝きに、胸の奥やお腹の底がむずむずして、体がかゆくなった気がした。指輪だ。銀色で、内側にはイニシャルが彫ってある。ぼくと、椎名だけの指輪だった。



 椎名、と呼び掛けようとした時、突然列車が激しく揺れた。ガタガタと音を立てて、乗客の恐怖を煽る。しかしこの車両に乗っているのはぼくと椎名だけだった。椎名は相変わらず、なくなっている左手を気にするように右手で触って、外を見ている。窓の外は完全な暗闇だった。暗く深く、まるでアリスの落っこちた穴のようだと思った。窓から、するりと椎名がいなくなってしまいそうな気がして、ぼくは軽く椎名の腕を掴んだ。

 椎名は垂れてきた横髪を耳にかけて、大きな黒目を細めて笑った。曰く、眼科の先生にも、きれいな瞳だと褒められたことがあるそうだ。
「どうしたの、友野」
「いや……、ただ、」
椎名がアリスになるような気がした、とは言わなかった。代わりにへたくそな笑みを作って、椎名の左手はどこにいったんだろうね、と言った。椎名はそうね、と困った顔をした。
「それにしても、この列車はどこへ向かっているんだ?」
先ほどの衝撃で、列車は一時停止をしていた。もしかしたら事故でもあったのかもしれない。
「どこって、決まってるでしょ」
椎名がぼくの前髪を軽く触った。
「友野の行きたいところ」

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 白い照明に照らされた車内がぐらぐらと揺れた。そして、ぼくは椎名の言葉に揺さぶられていた。ぼくの行きたいところ。それは、はたしてどこなのか、ぼく自身わかっていないのだ。ぐるぐるぐると、迷子だ、と思った。起こっている出来事と、ぼくの理解が追い付いていない。そもそもなぜ、ぼくと椎名はこの列車に乗ったのか。ぼくの行きたいところ、そこは一体。

 とんとん、と小さな手で肩を叩かれた。椎名の目がぼくから、その後ろへ動く。ぼくはその視線を追いかけるように振り向いた。

 水色と白でできたセーラー服に身を包んだ、二人の男の子が立っていた。一卵性双生児というやつなのだろう。まったく同じ服を着た二人を見分けるすべを、ぼくは持っていなかった。
「お兄さん」
左の男の子が口を開いた。薄茶色の髪の毛が柔らかそうで、一瞬、触ってみたいと思った。
「お兄さんは、」
今度は右の男の子が口を開いた。同じ声、同じ顔。にこにこと笑う左の少年と、困惑したように眉を下げる右の少年。
「どうして」
「お兄さんは」
交互に口を開く二人。ぼくはどっちがどっちか判断がつかず、混乱してしまいそうだったので、二人を区別しないことにした。双子は言う。小さな口をくるくる動かして。

 「どうして、一人でお話ししながら座っているの?」



 ぼくは何を言っているのだろう、と椎名の方を振り向いた。黒目を細めて笑う彼女、黒髪を色っぽいしぐさでかきあげる彼女。

 ぼくの隣に、椎名は座っていなかった。
「……え?」
双子の小さな船乗りは笑った。高くて無邪気で残酷な子どもの笑い声が響く。
「お兄さんてば、変なの」
 椎名、と小さく呼んだ。なあに、と振り向く彼女はいなかった。しかし、代わりに窓側の座席の上には、薬指に銀色の指輪のある左手が座っていた。ぼくの左手の薬指にも同じ指輪が嵌めてある。椎名とぼくだけの、指輪だ。
 椎名に、君の利き手はここにあったよ、と伝えてあげようと思ったが、ぼくの部屋のベッドに横たわる椎名を思い出した。
 椎名の首をぐるりと囲む、紐状のあざ。それは確かにぼくのつけたもので、彼女はあの時、息をするのをやめたのだ。切り落としてきた左手を持ってきたのは、ぼくと椎名を繋ぐ鎖を嵌めていたからだ。ぼくが椎名を殺したのは――……。

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 ぼくの、行きたいところ。
 それは椎名のところだ。

 ぼくは椎名の左手に指を絡ませて握った。
 椎名のところへ、列車は進むべきで、つまりぼくは死ぬべきだ。
 双子のかわいい水兵は、残酷さゆえに死ぬがいい。

 窓の外は、いつの間にか薄明るくなってきていた。


-----(了)


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