逢魔が時、ふたりの天使とひとつの翼


 昼から夜への橋を渡す。太陽が誰かにバトンを繋げていく。金色の光をいっぱいに放ち、今日という日は終わりが近いのだと告げる。黄昏時。逢魔が時。ただなんとなく寂しくなる時間。

 魔物に逢うというその時間に、ぼくはひとりの天使と逢った。



 天使は柔らかな栗毛をもっていた。そしてアーモンドみたいな目をしていた。白磁のように滑らかで美しい肌をしていたし、比較的小柄でひどく華奢な体型だった。線の細い体つきは女のようだったが、その天使は男だ。
 夕日に照らされた髪が金色に揺れた。ふわりと金木犀の香りがする。なるほど、天使は金木犀の香りがするのかもしれない。オレンジ色の小粒な花。それはきれいに天使のイメージと合致した。

 風が吹いた。公園のブランコが音をたてて揺れる。甲高い金属の悲鳴のようだ。そして天使がゆっくりとこちらを見た。アーモンド形の茶色の目。それに吸い込まれるようにぼくは立ちすくんだ。もしかしたら彼は魔物なのかもしれない。
「天使?」
ぼくは確かめるように呟いた。だが、天使はまるで敵を見るような目をしていた。そして憎々しげに口を開く。形のよい薄い唇。神様からのことばを捧げる唇。
「ばっかじゃねえの」
そして吐き出されたのは小さなとげをもった言葉だった。天使は続ける。ピンク色の唇が動く。
「“テンシ”じゃなくて“タカシ”って読むんだよ、ばか」
聞けば、彼の名前は“天使”と書くそうだった。
「そうなんだ」
そしてぼくはまた、彼のことを天使と呼んだ。天使は眉をよせて不機嫌そうな顔をしている。天使のくせに、だ。
「お前、堕天使だろ」
天使が言った。ぼくがあまりその呼び名を好いていないことを知っているらしい。しかし間違ってはいない。ぼくは眉をよせて、小さく首を縦に振った。天使は意地悪そうにわらう。ぼくは少々ムッとした。
「区切るところを間違えているよ」
ぼくは続けた。
「“ダテンシ”じゃなくて“キダ”と“タカシ”だから」
そのあと天使は、なんだおれと同じ名前か、と息を吐いた。



 ぼくたちは天使と堕天使だった。

 「翼が生えたらどうする?」
ぼくは天使にそう尋ねた。すると、天使は美しい口を動かして答える。ぼくたちは逢魔が時にだけ、こうして逢っていた。夕焼け。漠然とした不安。魔物がどこかに立っている。向こうからくる誰かは、彼? それとも……。
「翼が背中を突き破って生えるなら、痛くて死ぬんじゃねえの」
天使はぼくを見ることもせずに言った。どこか遠い目。まるで故郷への哀愁。天国のことを考えているのかもしれない。
「飛びたいとは思わない?」
「思わない」
ぼくが聞くと天使はすぐに答えた。どうやら天使は天国に帰りたくないようだ。天使には真っ白な翼がさぞ似合うだろうに。
「堕天使は?」
天使と目が合う。じっと。相変わらず吸い込まれてしまいそうだ。美しい眼差しをしている。
「……飛んで行って帰ってこない」
ぼくが答えると、天使はふっと目をそらした。ぼくの体の力がゆるゆると抜ける。
「飛びたいのか」
天使が尋ねた。ぼくはうなずいた。
「飛びたいね」
ないものねだりのような会話だった。ぼくは地上を走る。灰色の重たい翼をもったまま。空を見上げて天国を想う。そんな飛べない堕天使だ。天使はきっと空を飛ぶのに飽きてしまった。ぼくはそんなことを考えた。
「なら飛べばいい。その翼で」
天使はぼくをじっと見つめた。ぼくを縫いとめる視線。アーモンドの瞳は、しばらくぼくを離さなかった。



 ひとつの翼があった。純白の美しい翼だ。神様へ、挨拶するための翼だ。

 「天使」
ぼくは静かに彼を呼んだ。不吉な雰囲気。ただよう金木犀の香り。世界の輪郭が曖昧になる。逢魔が時。魔物はいったい誰?
「なに、堕天使……ああ、いや、天使」
夕焼け色に染まったタカシは、口元をわずかにゆるませた。挑戦的にわらう。ぼくは背中の翼を動かした。純白の美しい翼だ。神様へ、挨拶するための翼だ。そして、飛び立つための翼だ。
「飛んで行って帰ってこない……だっけ?」
ぼくはうなずいた。逢魔が時に、するりとはみ出してやってきたのは。魔物は。天使は。そして、堕天使は。

 魔物はぼくで、天使はぼくだった。そして、タカシもまた、天使であった。

 翼を動かすのは苦ではない。慣れたように、昔のように翼を広げる。音を立てずに、翼は広がった。ぼくの体に不釣り合いなほど大きい。沈みゆく太陽の光でぼくの翼は金色に輝いていた。タカシの背中に翼はない。
「魔物はぼくで、天使はきみだった」
「魔物はお前で、天使もお前だった」
そして堕天使もお前だった、とタカシは言った。



 飛び方を忘れて、翼を忘れた。しかし翼は、ぶらりとぼくの背中についたままだった。逢魔が時。落ちたままのぼく。地上に留まる。地上を歩くのは天使ではない。飛び方を忘れるのは天使ではない。すなわちぼくは堕天使だった。魔物と同じ。逢魔が時に夜からはみ出す。

 タカシはぼくを、魔物を、堕天使を見つけた。
 ぼくは地上の天使を、ひとりの人間を見つけた。

 「ぼくは飛んで行く」
「もう戻ってこない」
タカシの静かな声。今日が最後だ。ぼくは天使で、天使は飛ぶ。神様の言葉を授かりに戻る。
「じゃあな、天使」
「うん、さようなら。天使」



 ぼくたちが逢うのはいつも夕暮れ。黄昏時。逢魔が時。ぼくは天使でタカシも天使だった。そして翼はひとつ。地上にいる天使は空を飛ばない。きっとむかし、彼は天使であったのだと思う。飛ぶのに飽きた、美しきエンジェル。そしてぼくは異界の魔物。少しの間、飛び方を忘れた天使。翼を引きずって歩く姿はさぞ滑稽だっただろう。魔物じみて、ただの、堕ちた天使のようだっただろう。

 飛び方を思い出した翼。それはばさばさと音をたてた。ぼくのつま先が地面から離れる。地上の天使はぼくを見上げていた。アーモンド形の瞳。はっとさせられる瞳。ぼくを引き込む瞳。ぼくは目を閉じた。地上へ残ってはいけない。帰るべき場所がある。それならば、帰るべきだ。  また少しだけ、逢魔が時に。黄昏時に。異界からはみ出してもいいだろうか。地上の天使に逢うために。あのアーモンドの瞳に吸い込まれるために。彼の背中に翼が生えて、彼をころしてしまわないために。なんて。

 タカシもぼくも手を振らなかった。日が沈む。今が終わる。黄昏時が終わり、逢魔が時が終わる。太陽がいなくなる。昼は夜へ橋を渡しきる。太陽は月へバトンを繋いだ。金色の光が消えていく。終わる。この別れの時間も。

 そして地上の天使は夜へ。ぼくは神様へ挨拶に。




――――(了)


カオス。これ以上わかりやすくごちゃごちゃならず書けないっぽい。いつか修正したい。

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