満月だった。
夜空に穴をあけたみたいにぽっかりと浮かぶ月。街燈よりも優しくおれたちを照らしてくれていて、あかねの髪も月の色に染まって輝いていた。
「月がきれいだね」
思わず月を見上げたまま呟くと、あかねはクスクスと笑った。街燈の強い光に照らされたあかねの顔はほんのり白い。
「いきなりなあに、それ。告白みたい」
白い頬を少しだけ赤くしてあかねは笑っていた。おれは意味がわからず首をかしげる。はたしてさっきの短い一言の中に、告白の要素なんてあっただろうか。そんなおれに気付いたのか、今度は苦笑いをしたあかねが言った。
「夏目漱石はね、“アイラブユー”を“月がきれいですね”と訳したんだって」
有名な話だよ、とあかねは言ったが、あいにく無知なおれにはよくわからなかった。どうして“アイラブユー”が“月がきれいですね”になるのか理解できない。
「どうしてそうなったんだろう」
「さあ、ただ、日本人はそれで通じるんだってさ」
おれにはちっとも通じないようだった。ふうん、とうなずいて、でも確かに、さっき言った言葉の意味に今さら赤面した。
「じゃあ、二葉亭四迷って人の、男が“アイラブユー”って言って女の人が“アイラブユー”って返すシーンの訳のことも……知らないよね」
「知らない。なんて訳したの?」
おれが尋ねると、あかねはふふふと笑った。
「さあね」
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そんなことを言っていた満月のあの日から、いったいどれだけの日々を過ごしたんだろう。おれはあの時よりも大きくなったし、博識にもなった。しかしあの時あかねが言った、二葉亭四迷の“アイラブユー”の訳のことは調べてすらない。なぜならおれは、そのことを考えてるのが好きだからだ。いったいなんて訳したんだろう。おれならなんて訳すだろう。なんて。
あかねはきれいな女の子になっていた。茶目っけもある誰にでも好かれるような女の子だ。反面おれは、深い闇の中に身を落としつつあるのを理解していた。これからどんどん成長するたびおれたちの住む世界は決定的に別れてしまうのだろう。でも。
隣に座るあかねがにっこりと夜空を指差した。
「ゆうだい」
「なに」
「見て」
「ああ」
言ってしまおうと思った。君が好きだと死ぬほど素直になって。
「……月、きれいだね」
あかねの返答には、しばらく間があった。一瞬息をのむような音が聞こえて、数秒。もしくは数十秒。
はにかむような笑顔でおれを振りかえって、白い頬を朱に染めたあかねは言った。
「わたし、死んでもいい」
---(了)
夏目漱石の「月がきれいですね」も好きだけど、二葉亭四迷の「わたし死んでもいいわ」も好き。しかし短いうえに描写も少ないので、気が向いたら修正するかも。
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