「まわるの」

そう言って瑞希は、怪しく口の端をつりあげて、いたずらっ子のような笑顔を浮かべた。


回帰する微熱


 夏休みも残りわずか、道端にごろごろ転がっているセミの死骸は、俺を少しだけ憂うつにさせた。セミは自分の命と一緒に俺の夏も連れ去ってしまうらしい。ちなみに課題はまだ終わっていない。そして夏特有の殺人的暑さは、まだまだ俺のそばにいる。
 だが、なぜこいつが俺のところにいるのかはわからない。玄関のチャイムが鳴り、扉を開くとにこにこといい笑顔を浮かべた瑞希がいた。そして、いくらか冷たい手で俺の腕を引き、笑みを深めた瑞希の意図は、残念ながら読み取れない。

「なあ、暑いんだけど」
「それはかおちゃんだけ」

なるほど、瑞希の体は俺よりもひんやりしている。低体温なんやろか、とくだらないことを考えて、やめた。

「かおちゃんが暑がってんじゃないかと思って」

両手で俺の右手をつかみ、肩をぎゅっとすくめて笑う。いたずらする前の子どもみたいな笑い方だ。

「いや、離してくれな暑い」
「いーの、」

きて? と首をかしげられたら、俺に断るという選択肢は消え失せてしまう。思わず、おんとうなずいて、少しだけ後悔した。外は残暑が厳しく、久々の休みだった俺は家で適当に課題をやりつつだらだらしたかったのだ。しかし俺がうなずいたもんだから、瑞希は嬉しそうに俺の腕を引いて外に出た。

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 外は予想通り、うだるような暑さだった。立っているだけでじんわり汗が浮かんでくる。瑞希に抱えられている腕も、だんだん熱くなって汗が滲んだ。

「なあ、瑞希、」
「いーから、まわるの」
「……は?」

その時だった。玄関から一歩踏み出し扉を閉め、腕を引っ張られたと思ったら、俺の視界は反転した。ぐるりと逆さまになる景色。瑞希はぐいぐいと俺を引っ張り、空へと連れ出す。手応えもないのに足を動かし、逆さまになって空を歩いた。

「な、ちょ、瑞希、なんだよこれ」

先へ先へ、もっと高く、と俺を連れて歩く瑞希は顔だけこちらに向けて、屈託のない笑顔で言った。

「まわるよ」
「ちょ、待っ、」

ぐるん。視界は元の方向に戻ったが、相変わらず歩いているのは、青々しい空だ。入道雲とのコントラストがまぶしい。俺の戸惑った静止の声も聞かずに、瑞希は走りだす。当然俺も走らざるをえなくなる。

 もくもくと高い入道雲も、階段のようにぽんぽん登った。ぽやんと弾力のあったそれに、ますますわけがわからなくなる。瑞希はまるで、それが当然であるかのように、ふわふわと駆け上がった。太陽がぐんと近くなったが、不思議と暑さはない。入道雲のてっぺんに座って、瑞希は微笑んだ。俺も腕を引かれているので、横に腰かける。だめだ、わけがわからない。生クリームのような弾力を感じ、俺は瑞希を振り向いて言った。

「雲、うまそうだな」
「うーん」

ちょい、と雲を指先ですくって、瑞希は肩をすくめる。

「でも味薄いから、チョコレートソースとかかけないと」
「味、ねえの?」

そう言って俺は、瑞希のすくった指先の上の雲を舐めとった。柔らかな弾力はあるが、確かに味が薄い。かすかに甘いような風味を感じるが控えめすぎる。

「ほんとだ」

ちらりと横目で瑞希を見た。突然のことで恥ずかしそうに顔を赤らめて驚く瑞希に、思わずにやりとした。いつもは俺がこうして引っ張っているが、今日は瑞希に振り回されっぱなしで悔しかったのだ。しかし、負けじと瑞希も立ち上がる。まだ少し耳が赤い。俺も引っ張られて立ち上がった。

「次はどこ行くんだ?」

もう多少のことでは驚かないぞ、と笑うと、瑞希もまた、にやりとした。そしてまた空へと踏み出し一回転と半分。ぐるーん。横向きになったが、俺はだんだん空中散歩には慣れてきたらしい。いくぶん余裕もできて瑞希を見たが、瑞希は前を見て歩いている。そしてまた、半分回った。目の前にはさっき駆け上がった入道雲で、瑞希は逆さまのままそちらへ駆け出した。先に瑞希が入道雲の中へ消え、瑞希に引っ張られている俺は、遅れて腕から中へ入った。一瞬視界が真っ暗になり、上下感覚もなくなったがすぐに視界は開けた。開けたはいいが、塗りつぶしを行ったような深い青の世界だった。続いてひんやりとした感覚が身体中を襲い、遅れてここは水中だと気づいた。瑞希の髪がゆらゆらと漂っている。まつげに乗った空気の泡が下に浮いたので、まだ逆さま状態だということがわかった。そして。

「呼吸……してねえんだけど」
「いらないよ」

いたずら大成功。そんな表情の瑞希に、なんとか平静を保とうとするも、困惑と動揺は隠しきれなかった。目を細め、空気の粒も吐かず話す自分たちに、思わず乾いた笑みがこぼれた。入道雲の中の水中には、虹色の鱗をもつ鯉がゆらゆらとひれを動かしていた。瑞希はそれらをとん、と踏みつけて歩く。とんとん、と俺も続いた。時折、入道雲の中の渦に巻き込まれ、俺たちは両手をつないでぐるんぐるんと回った。

「かおちゃん、」

両手をつないで、正面に向かい合った瑞希が言う。はじめて、口から気泡がこぼれた。

「すき」

そう言ったとたんに、周りの景色が、ダイソンの掃除機に吸い込まれるみたく、ぐるぐるとせわしなく回り、空と雲と水と鯉が混ざりあって収束し、はじけた。シャボン玉が弾けるみたいに、ぱちんと言った。

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 「は……?」

そこは俺の家の玄関だった。しかし抜けるように青かった空は、茜色と夜の混同する、グラデーションの美しい空へと変わっている。鳴いたカラスが、どこかわびしい。そして、目の前には昼間とおんなじように、いたずらっ子のような笑顔を浮かべた瑞希がいた。俺の両手を握って、向かい合っている。さっきの出来事がなんなのか、ますますわからなくなった。

「涼しくなったでしょ」

歯を見せて笑った瑞希に、一瞬ぽかんとしてしまった。そしてなんだか悔しくなる。なにか言い返してやろうと口を開きかけた時、おもむろに瑞希が俺に抱きついてきた。そのことに動揺してしまった自分が恥ずかしくなって、顔を見られてしまわないように瑞希の頭を押さえる。自分の心臓はいきなりばくばくと活動しだすし、入道雲の中ですっかり冷えた身体には、あっという間に熱が戻ってきていた。もちろん、この状況が産み出した、俺の平熱より余分に高い熱だ。

「、あほ、またあつくなった」

抱きしめて触れた瑞希の腕も、じんわり熱かった。


---(了)

ぐるぐるする恋愛小説が書きたかった。なりそこないな感じは否めない。

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