深海宇宙


 音のない世界のようだった。

 耳をつんざくのは耳鳴りばかりで、それは宇宙と交信でもしているように、ぴいんと頭を貫く。まぶたを閉じても開いても、広がる景色は変わらない。塗りつぶされた、完全な黒に前が見えなかった。前どころか、後ろも、右も左も、上も下も、すべてが闇に覆われていて、つるりと飲み込まれてしまいそうだ。音もない、光もない、においもない。まとう闇の感覚もなく、そこはまるで、間違えてできてしまった穴のような、欠陥スペースだった。

「ねえ」

 声は、この暗闇の中で響きすぎるくらいによくとおった。低く老人のように枯れた、不気味な声である。ゆらゆらと水の動く感触がして、目の前に現れたのはグロテスクな外見をした、大きくひょろ長い魚だった。長く伸びた背びれの先には、アンコウのように光る部分があり、それはとてもよく目立つ。異様に大きく鋭い歯は嫌でも人目をひいた。頭部を上方に跳ね上げながら大きく口を開いて、その魚は言った。こぽり、と水泡があがる。水の、音がする。ぎらぎらとした歯が水を切った。

「あんた、どうしてこんなところへ?」



 少女がいた。長い黒髪は深海に溶け、ゆらゆらと浮かび上がる。顔色が悪くも見える青白い肌は、発光体のように輝いて見えた。その少女の顔には、なんの表情もない。重くなったワンピースを水中で遊ばせながら、少女はゆったりと歩き始めた。大きな水の抵抗を振り切るように、一歩一歩と踏みしめて進んでいく。白い足の指の間から、細かく輝く砂がこぼれた。少女の吐息は、空気の粒となって空に向かって浮かんでいく。
 大きな歯をもつ、グロテスクな深海魚を目の前にして、表情のなかった少女は小さく口の端をつりあげた。しかし瞳は笑っておらず、どんよりと灰色に濁っている。少女の口から気泡がこぼれる。

「あなたはだあれ?」



 深海魚は小さく声を漏らして笑った。しかし大きな口のためか、大げさに笑ったようにも見え、口と声の大きさの合わない、こっけいでおかしな姿になってしまっていた。

「おれかい? おれはしがないホウライエソさ」
「ほうらい、えそ」
「見たことも、聞いたこともなくったって構わない。シーラカンスが有名すぎるんだ」

 ふうん、とうなずいた少女の白いつま先につん、となにかが当たった。ごつごつとした球体のなにかだ。白く細い両腕で、少女はそれをそっと持ち上げた。目の高さまで持ち上げ、星の光をたよりにしげしげと眺める。月面のクレーターに似たものがちらほら確認できた。
 無数の星が、足元を照らしていた。周りにはいくつもの惑星がごろごろ転がっている。少女が拾い上げたそれは、比較的小さく、波の模様のついた惑星だった。

「これは水星ね」
「さてね」
「あっちにあるのは木星でしょう」

大きな茶色っぽい惑星を指差し、少女は少し得意げに言った。ところで、と少女は続ける。抑揚のない、平坦で深海のように冷たい声音だ。

「惑星が、どうしてこんなところに?」



 「そいつらはみんな、もう死んでいるのさ」とホウライエソは意地悪な口調で言った。がくんと開く大きな口は相変わらず気味が悪い。少女は転がった地球を見て目を伏せた。

「もう死んでいる」
「ところで、もう一度聞くが、お前はどうしてこんなところへ?」
「わたし、は」

長いまつげは、少女の白い頬に暗い影をおとす。

「もう死んでいるから」



 「なるほど、だからこんなところにいるんだな」

とホウライエソは納得したように呟いた。「先に言うが、おれは死んじゃいない」。ぎょろりとした目玉が少女を見つめた。濁った灰色の瞳も、ホウライエソを見つめ返す。

「それなら、あなたはどうしてこんなところへ?」



 上方をすいすい泳ぐ流れ星が落ちた。砂に触れてきいんと光り、ホウライエソと少女の視界をつぶしてしまうほどに、光りは強力だった。しかし、その光りもすぐに死ぬ。拡散して収束し、水底に食べられた星の光りを、ホウライエソは頭を跳ね上げ笑った。

「ところであんた。おれはもとからここの住人なのさ」
「ここが海の底だから」
「だが宇宙でもある」
「うちゅう」

少女は足元の金星を蹴った。そして、緩慢な動作で顔をあげる。少女とホウライエソの頭上に広がっていたのは、まぶしいほど輝く天の川だった。星の欠片は少女の顔を青く照らし、ますます顔色が悪いように見える。抱いたままの水星に色のない唇でキスをおとし、少女はそっと両手を離した。すると、水星はゆらゆらと水中を泳ぎだし、星のひとつとなった。木星も、金星も、火星も、土星も、ふたたび宇宙を創造する。最後に地球を手にした少女は、ホウライエソに言った。惑星もわたしも死んでいる。だけど。

 「ここはもうべつのせかいだから」


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 「深海に宇宙ってあってもいいと思うの」

 柔らかな茶色の髪をかきあげて、三村イサキは言った。深海なんてまだまだ未知なんだから、宇宙くらいあってもいいと思うの。

「さっきの話、全部自分で考えたの?」
「そう」
「これをつくるにあたって?」

ちがう、と三村イサキは首をふる。ふわりといい香りがした。「このお話があるから、これはできたの」。


 美術館だった。白い壁に、極彩色の絵画がいくつもならび、目が回る。だまし絵に近いものもあって、見れば見るほどめまいがした。頭がずうんと痛い。そのなかで、俺はひとつの絵の前にいる。三村イサキの描いた絵の前だ。美しいネイビーブルーの海の底から、鮮やかなティールグリーンの宇宙が広がる、一枚の絵。宇宙には天の川が輝き、水底には惑星が転がっている。ちょうど、青白い少女の手が地球を持ち上げようとしているところだった。先ほど三村イサキが話した物語の一場面。ただ、少し違っているのは、深海魚がホウライエソでなくリュウグウノツカイということだ。さらに、そのリュウグウノツカイの赤い背びれにも、本来は存在しない、アンコウのように光る部分がついている。優しい青の光だ。

「どうしてホウライエソじゃないの?」
「ホウライエソだと顔がこわいから」

三村イサキは肩をすくめ、厚い唇を歪めながら苦笑した。なるほど、と俺はうなずく。ホウライエソだと、グロテスクな容姿にばかり目がいって、この神秘的な絵の雰囲気が損なわれてしまうかもしれない。そして確かに、顔が怖い。

「だけど、この背びれについているのは?」
「わたしに全部解説させるつもりね」
「だって描いた君にしかわからないだろ」

仕方ないと言わんばかりに、三村イサキはため息をついた。大きく深く、厭味ったらしいため息だ。合わせて、その骨ばった肩も上下する。まったく、やれやれ、この低能。そこまでは言ってない、かな。

「これは深海宇宙なの。惑星は星でしょ、天の川だって星。この女の子がぼんやり光ってるのも、星ってことを暗示したいの」
「つまり、リュウグウノツカイの明かりも」
「星のひとつ。全部がいて、ここは宇宙になる、といいなあ、なんて」

俺は感心したように息を漏らした。隣で、三村イサキは少し得意げにほほ笑んでいる。それを見て、彼女には勝ち気な表情が似合わないな、と思った。ピアノでも弾かせれば、たいそう絵になるだろう。しかし、そんな儚げな容姿を気にすることなく、三村イサキは絵だけを描き続けてきた。時には、謎めいた物語つきで。


 彼女の絵は確かに、深海の中にあるひとつの世界で、そこは宇宙だった。惑星のたゆたう深海。停止したままの、べつのせかいのお話。海水に揺られ、星を見上げながら、青白いあの少女は、ホウライエソと何を話すのだろう。三村イサキの絵を見つめながらそんなことを考えたが、俺にはわかるはずもない。左手で頭をかいて、隣の三村イサキに言った。

「ところでさ、これからなんか食べに行かない?」
「おごりなら」
「そりゃ厳しい」
「当然」


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 深海にあるという宇宙を描いた絵の下には、小さくタイトルがついている。白いプラスチックの板に彫られた、黒い字。青いキャンパスを名付けるそれには、こうあった。

 『タイトル:「地獄」』


---(了)

某掲示板でSS大賞なるものに応募したところ、優秀賞なんて大層なものをいただいてしまったやつ。ありがとうございました。

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