歩く影法師


 夕方、そろそろ帰ろっかってなる一歩手前。団地だから、各家庭からふんわりと夕飯のいいにおいが漂ってくる時間。お日様が、だんだんビルの隙間に沈んでいく時間。その時間には赤みのさした地面にするりと、実際のわたしたちよりも大きな影ができるので、よく影踏みをして遊んだ。大きすぎるほど伸びた影はとても踏まれやすいので、スリルがあって面白い。だから、日の高いうちにはせず、決まって夕方にやった。

 しかし一体どういうことだろう。
 「お盆休み」に入ってから、あっくんもイトもおばあちゃんちに行ってしまった。「おぼん」とはどうやら、あの料理や飲み物をのせて運ぶ平らなプレートのやつじゃないらしい。よくわからないけどとにかく「お盆休み」はおばあちゃんちに「帰る」子がたくさんいるのだ。

「影踏みするもんこの指とーまれ」

 夕方の団地は、おいしそうなにおいと真っ赤な空と、わたしにはよくわからない言語でおしゃべりをする蝉たちが、わんわんやかましいだけだった。長く伸びた黒いわたし、黒い団地の棟、黒い木。遊び場だったそれが、今は何とも恨めしい。あっくんもイトもおばあちゃんち。ときどき遊ぶうーちゃんも、おばあちゃんち。なんだか面白くなくて、でも家に帰るのは嫌だったので、ぶらぶらと団地内を徘徊する。なんとなく、前に三人で作った秘密基地に行こうと思った。団地の中には公園も多いし、木も草も多く、目隠しになる場所だってたくさんある。そのひとつに、ぼろぼろの板きれなどを運んだ、みすぼらしいけど素敵なわたしたちだけの秘密基地を作ったのだ。手入れされてまるくなったつつじの木と木の間を通るのは、子どもだからできること で、すこしだけできたその木の間に、わたしは身体を滑り込ませた。木の近くの日陰っていうのはなんとも涼しいものだ。ようやくつつじの隙間を抜けて、わたしはびっくりした。



 いろんな色した、変に明るい空。あざやかなティールグリーンもあれば、海みたいな深い青もある。夕焼けみたいな茜色に、抜けるようなスカイブルー。怪しげな赤紫色の空もあり、それらが黒の糸で縫いつけられていた。つぎはぎだらけの空に浮かぶのは、まぶしい銀色の三日月。影絵みたいな怪しい建物が立ち並ぶ、絵本みたいな世界だった。秘密基地なんてどこにもない。煙突のついたおうち、高い塔に教会みたいな十字架。よく見たら逆さまで、逆向きの十字架なんて趣味が悪いと思った。不気味だけど、オモシロソウできれいな世界。

「う、わあ」

だから、思わず声が漏れた。真っ黒の影でできた建物からは黄色の光が漏れている。しかし人の声は聞こえない。黒っぽい道を歩きながら、わたしは少しだけ考えた。ここはどこだろう。いつもなら、つつじの木を抜けると存在するのは、わたしたちの秘密基地だ。しかし、考えたってわかるはずもない。わたしは肩をすくめた。



 「おや、珍しい。お客さんかい?」

 あてもなくさ迷い歩いていると、突然声をかけられてとても驚いた。後ろを振りかえると、なんとも奇妙な格好をした人がいた。マジシャンのような黒々としたシルクハットに、ショッキングピンクや明るい黄色の、絵の具みたいな模様のシャツ。薄いブルーのダメージジーンズを履いていて、黒のバッシュは履き潰されてぼろぼろだった。首からは赤い蝶ネクタイがだらしなく下げてある。賢そうな黒縁眼鏡の奥の瞳は鋭くて、なんだか少しどきりとした。しかし、なんていびつな格好をしている人だろう。わたしがまじまじと眺めていると、その人は笑った。

「初めましてお嬢さん。影の国へようこそ」

薄い唇を三日月形にして笑うその人は、とても不気味だった。

「影の国?」

するとその人はますます笑みを深くした。眼鏡の奥の瞳も狐みたいに細く、意地悪な印象を受ける。

「そうです、ここは影の国なのです。あなたは数少ない入り口からやってきた幸運な方なのです」
「入り口?」
「ええ。ここにつながる入り口は数ヶ所存在しますが、ここにたどり着くことができるものはごくわずかなのですよ。ですから貴重なお客さま、どうぞごゆっくり」

そうしてその人はぺこりと丁寧におじぎをした。ぶらりと首に下げた蝶ネクタイが揺れる。そうしてくるりと背を向けて、ふらふらとどこかへ消えてしまった。わたしは慌てて追いかけようとしたが、時すでに遅し、だ。忽然と姿を消したその人は影の国を熟知しているのだろう。無数にある分かれ道や曲がり角を見てわたしはうんざりとした。しかし、ずうっと突っ立ってるわけにもいかないので、わたしは影の国の中を歩き回ることにした。



 すると、次に現れたのは女の子の影だった。身体は存在せず、影だけがぽつんとたたずんでいる。髪を二つに結ったわたしと同じくらいの女の子の影。影だけ存在している、というのはなかなか不気味な光景で、少し怖くなった。しかし、ここは影の国で、もしかしたらそれも普通なのかもしれない。わたしは恐る恐る口を開いた。

「あの、」

しかし、その女の子はわたしの言葉を遮って言う。

「あなたもここに迷いこんだの?」
「え?」

影の女の子はちょんと首をかしげた。そして、違うの? と尋ねる。わたしはゆるゆると首を振った。

「あってる……けど、どうして?」
「みんなそうだから。王様以外ね」
「王様なんているの?」
「あら、会わなかった? いえ、会ってるはず。シルクハットに変なシャツ着た怪しい人なんだけど」

わたしはすぐに、最初に会った人だとわかった。しかし、あんな変な人が王様だなんて考えられない。だがそれ以外に当てはまる人はいなかった。今度はかくんと首を縦に振る。

「会っ、た……」

すると女の子は、ほらねと言わんばかりに笑った。

「かわいそうに。あなた、もうこの国から出られないわ」
「えっ……」

女の子は口の端をつり上げてくつくつと笑う。どことなくあの“王様”に似た笑い方だ。そして音もなく歩いてどこかへ行ってしまった。ぽつんと取り残された、わたし。



 そしてまた、あてもなく彷徨う。出られないと言われてしまったが、別に諦めたわけではない。不思議の国のアリスだって最後は夢だったりするのだ。いつかは現実に帰る、夢は覚める。当然のことだった。
 ぐるぐると歩きまわっていくうちに気付いたのは、見かけただけでは全員“影”の姿をした住民だったということ。王様は普通の人みたいなのにどうして、と疑問はあったが、ここは影の国、と心の中で唱える。つまり影の国には影の国のルールが存在して、影の国ならではのありかたがあっても不思議じゃないのだ。そして歩く。歩く。どうやら影の国で生きている人はまだまだ少数のようだった。中には動物だっていたが、それもあまり見かけない。するりと足元に寄ってきた猫をこちょこちょとなでてわたしは立ちあがった。猫も影の姿だったので、当然のように黒い。色がないとなんだか寂しい気がした。

 適当にぶらぶら歩いていると、今度は目の前に、今までとは比べ物にならないほど大きな建物を見つけた。お城だ。すらりと上品にそびえるお城は、もちろん影絵みたいな黒だった。むくむくと興味がふくれあがる。女の子は誰だって、一度はお城に憧れるものなのだ。音をたてず開いた門をためらいながらもくぐりぬけることにした。
 お城の中は色があったりなかったり、すこし目に悪い配色のような気もした。影絵アニメをふと思い出す。黄色やピンクや紫の照明を巧みに利用した影のお城は赤いじゅうたんが敷かれていた。わたしが歩けば、まるでこちらへどうぞ、と扉が開くので、大人しく従う。誘導されているようだが、どうせ目的もないわたしにはどうでもいいことなのだ。廊下を抜けて扉をくぐると、そこには“王様”がいた。白い手袋をはめた手で、黒い癖っ毛を触っている姿は、少し子どもっぽい。

「やあやあようこそいらっしゃい。どうかなワタシのお城は」
「素敵だと思うけど、わたし、そろそろ帰らなきゃ」

わたしがそう言うと、王様は大げさに驚いたそぶりを見せた。

「帰る! 帰るだって? それはいったいどうして?」
「わたしが困るから」
「いいや、あなたは困るかもしれないけれど」

王様は笑った。そしてどこから出したのか、大きなスクリーンが現れる。映し出されているのは、あの夕方の団地、わたしの家の近くだった。秘密基地へとつながるつつじの木ががさがさと揺れる。

「“あなた”は困りません」

ひょっこりと顔を出したのは“わたし”だった。

「あちらには、あなたの変わりなんていくらでもいるのです」

つまらなさそうな表情をして、サンダルをぱかぱかといわせて走っている“わたし”の足元には大きく伸びた影があった。

「あなたはただの影なんですから」

意地悪に口の端をあげて王様は笑う。わたしは自分の真っ黒な身体を震わせた。



「では、改めまして。ようこそ影の国へ」


---(了)

某サイトさまでの企画小説です。楽しかった!

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