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目の前にいた、きれいな女の人の口から、もくもくと煙が上がった。
まるで公害問題の多発した工場周辺地域のように、わたしの世界には黒煙にあふれている。人の身体から、湯気みたいにあがる煙に、先ほど言った、口からこぼれる煙。それは些細な嘘であったり、悪口だったり、愚痴であったりする。その煙をはじめて見たのは小学三年生の時で、どんな意味があるのかわかったのは、中学生になってからだった。
嘘、悪口、愚痴。ほかにも、嫉妬、嘲笑、うらみ、憎しみ。つまりは、人間の汚い感情だった。それを、視認できるようになってからというもの、わたしの世界は文字通り暗転した。さまざまなところから立ちのぼる、煙、煙、煙。しかし当然ながら、吸うことはできない。だが、吸わされることは、できる。
それはつまり、悪口の対象であったりする人間のみが、黒い煙を吸わされるのだ。その光景を初めて見たときはぞっとした。ちょっとした愚痴程度や、本人に聞こえていない場合、その煙は空に浮かんで見えなくなる。しかし本人に聞こえてしまった場合、煙はまるで意思をもったみたいに、するすると動いてその子の耳へ入っていく。もちろん、決まって悪口を言われた子は、どんよりと顔が曇る。まさに暗雲だ。
真っ黒に塗りつぶされたような視界で出会ったのは、真っ白な服を着た女の子だった。
その日、わたしはどんなに経っても慣れることのできない黒煙をひたすら眺めていた。もくもくもく、というよりもすらすらと上にあがっていく煙は、毒ガスみたいだ。空に毒を撒き散らしていつかは飽和し、あふれてしまうんじゃないかと思う。そうして、人々は自分の撒いた毒で死んで行くのだ。そんなことを考えていた時、わたしの隣にいた白いセーラー服の女の子は、わたしと同じく煙を目で追うように顔をあげた。あまりにも同じタイミングだったので、わたしとその子は目が合った。その女の子は、大人しそう顔をした同じくらいの歳の子に見えた。
「もしかして、見えるの?」
その女の子は突然言った。何を、とは言わない。きっとあの子も、わたしと同じ景色を見ているのだ。黒い煙が立ち上り、排気ガスよりも効果的に人を傷つけることのできるあれを。
「見える、よ」
わたしは静かに言った。でも本当は嬉しくてしかたがなかった。やっと、やっとわたしの理解者が現れてくれた。わたしと同じ景色を見て、わたしの言葉を信じてくれる人。その女の子も同じ気持ちだったのか、嬉しそうに目を細めた。
「よかった、わたしだけじゃないのね」
「うん。わたしも、嬉しい」
「わたしだけが見えてると思ってた」
「わたしも」
薄い唇をした、白い女の子は言う。
「きれいよね」
もちろん、わたしにはわけがわからなかった。同じものを見ているとすれば、きれいだなんて言えないはずだ。黒々とした煙をきれいだと言える人間が、一体どれほどこの世界に存在するのか。きょとんとした顔で固まったわたしを、女の子は不思議そうに見つめた。
「え、ちょっと待って……、何が見えてるの?」
「え? お魚よ、鯉。きれいな鱗をきらきらさせて昇っていくじゃない」
「うそ」
女の子いわく、わたしと違って口や身体から、するすると鯉が出てきて昇って行くらしい。きらきらした鱗を持って昇っていく姿がとてもきれいなので、一人占めするにはもったいないだとか。彼女はそれを、人が幸せになった証、と思っているらしい。なんて羨ましい頭なんだろうと思った。鯉を幸せとして、それが昇って行くのだから、きっと幸せが逃げていっているに違いない。
「だって、わたしには、汚い煙があがっていくようにしか見えない」
わたしが眉をよせて言うと彼女は困ったように眉を下げた。
「あなたはきっと幸せじゃないのね。だからあれがそんな風に見えるし、そんな風に考えるし、鯉も出てこないのね」
その瞳はわたしを憐れんでいるようにも、見下しているようにも見えたので、わたしは思い切りその女の子を突き飛ばし走って逃げた。まるでわたしが汚いと言われているようだった。唇を噛んでうつむく。そしてはっとした。わたしの身体から、するすると出ていく煙。それは煙幕みたいにわたしの視界を遮った。
世界は相変わらず、煙をあげている。
---(了)
はじめのほうはすらすら書いてたけど、行き詰って最後ぐだぐだ、どうしようもなくてそのまま。色は灰色とかそのへん。
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