左肩の悪魔


※(あんまりひどくないですが)流血表現・メンタル表現がありますので、苦手な方はご注意ください。


---


 別に、死んでしまいたいわけではなかった。

 じりじりと暑い夜のことを、熱帯夜というみたいなので、今日はずばり熱帯夜なんだろう。家族が寝静まったころ、わたしは机の明かりだけを点けて立っていた。ピンクのリボンをした、白いねこちゃんのキャラクターが描かれた時計は、午前二時半をさしている。音を立てるのがはばかられて、そっと息をとめた。

 頭がぼんやりとしている。

 霞がかったみたいに、不明瞭で、頭の一部が麻痺しているような奇妙な心地。うまく回らないので使い物にならない。わたしは、ほとんど無意識に引き出しに手を伸ばしていた。取り出したのは、お花のワンポイントがついた、ピンクのかわいいカミソリ。半透明の白いキャップをとって、刃を眺めた。銀色の薄いこの刃は、一体何度、わたしに傷をつけたのだろう。ふいに、ペンケースに入れたままのカッターナイフを思い出した。友人に貸したら、紙を切るというとても健康的な使い方をしていて、逆に変な気分になったのだ。


 わたしの左腕には、無数の傷があった。

 それらはすべて自分でつけたもので、痕もひどいものだと理解している。手首を横切るのは、ずっと前に切った傷痕でもあったし、ついこの間切った傷痕でもあった。

 わたしはそのかわいいカミソリを、傷痕の残る左手首にぐっと押しつけ、一気に右へひいた。皮膚がぱっくりと裂けて薄いピンク色をしたの肉の内側が見える。それから遅れて、じわっと赤い血がにじみ出てきた。それはすぐに傷口から溢れ始め、つう、と腕をつたう。もう一本、もう一本、もう一本。そうして手首の感覚はどんどん失われて、痛みを感じなくなっていき、傷が深くなっていくのがわかった。

 わたしが切るのをとめたのは、手首に二十本ほどの傷をつけたころだった。あふれだす血液で手首から肘の関節にかけてがほとんど真っ赤。血が腕をつたった後、ぼたぼたと滴るその音や感触は、とても気持ちが悪い。右手に握ったままのカミソリをティッシュで拭いて、半袖のシャツの袖をめくった。

 左肩も、ノースリーブが着れないくらいには、傷痕が残っている。一年かけてようやく白くなったが、ケロイド状になった傷痕は、きれいとはほど遠い。十数本の傷痕を指でなぞって、カミソリを持ち直した。そして、先ほどとなんら変わらない手つきで、切る。
 自分が思ったよりも、深く切れてしまった左肩の傷は、比較的大きく口を開いていた。ぬらぬらと流れていく血液を見て、自分の貧血の理由にようやく思い至った。ばかだな、と思いながらもやめられない。もう一度肩の傷に目を向けると、ふ、とまぬけな声が漏れた。


 傷が、まるで口角をつりあげるようにして、笑っていた。傷口はそのまま、ぱくぱくと動き出す。奇妙で恐ろしい光景だった。

「ようよう、また切っちまってよお? なにがしたいわけ? 死にてえんならそこのベランダから飛び降りた方がよっぽど賢いぜ?」

男のようだが、妙に高く、聞いていて不快になる声だった。悪魔というのは、こんな声をしているのかもしれない。ひっひっひ、という笑い方も悪魔っぽかった。わたしの偏見だが。

「ん? だんまり? だんまりなわけ? おいおい寂しいじゃねえか。てかお前どうせあれだろ? 死にてえわけでもねえんだろ? 生きてえんだろ? どうせ構ってほしいだけだろうが、アヤカチャンよお。」

悪魔の声は、わたしが口を挟むひまを与えずにしゃべり続ける。

「手首切って、自分はほかと違うんだって思いてえんだろうが。認めちまえよ。心配されてえって、よお? 自分は特別だって、ちやほやされたくて切ってますーって。認めちまえよ、ほら」

ほらほら、と嘲笑しながらわたしの傷口は言う。耳が痛かった。黙って、黙って。

「ち、違う……、違う」
「あ? 何が違えんだよ、違わないだろ? こんな切っちゃってよ。将来ぜってー後悔すんぞ? あの頃は中二病全開だったなあってか、ひゃは」

それ以上は聞きたくなかった。黙ってほしくて、手が汚れるのも、痛みが走るのも構わず左肩の傷口を押さえる。本当は自分でもわかっていた。指の間から漏れる笑い声は相変わらず悪魔みたいで、わたしはぎゅっと目をつぶった。するといくつもの笑い声が部屋に響いた。驚いて腕を確認すると、今度は手首の傷口たちがくすくすと笑っていた。わたしを嘲笑っている。どうしようもなく責めたてられている気持ちになって、部屋にしゃがみこんで泣いた。だって誰も、わたしのことなんか心配してくれないのだ。切っても切っても気づいてくれない。

 声に出して助けてほしい、なんて叫べる勇気はなかった。


---


 また、べらべらとしゃべられてはたまらないので、わたしは外科に行って傷口を縫ってもらった。
 口を縫いつけてやれば、悪魔はもう話せまい。


 少なくとも、わたしが新しい傷口を作らない限りは。




---(了)

むしろ自分への戒めみたいな、自分を叱るためだけに書かれたやつですすみません。

Home