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あの色がいい、と先生は眼鏡の奥の小さな瞳を細めました。そして、着古したぼろぼろのツナギの胸ポケットから“あのはさみ”を取りだして言いました。
「お前も見てごらん。ほら、すぐに変わってしまうから、今の内だよ」
先生が指を差したのは空でした。夕方と夜の混在する今の時間、茜色と藍色の空の曖昧な境界線には、さまざまな色が広がっています。先生は、その中の美しいエメラルドグリーンに“あのはさみ”をいれました。そうやって、あっという間に空は切り取られます。長方形に切り取られた、エメラルドグリーンの空は、先生の指に挟まれ、薄っぺらな紙みたいに、ひらひらと風になびきました。先生は少し得意げに笑っています。先生に切り取られたあとの空を見上げると、そこにはもう、エメラルドグリーンはありませんでした。代わりに藍色がにじんでいて、まるで大慌てで切り取られた空を繕っているようでした。わたしがしょんぼりと眉を下げたからでしょう。隣にいる先生が、にんまりと意地の悪い笑顔を浮かべていました。
「あの空はもうないよ。切り取って、私の手の中なのだから」
わたしの目の前につき出されたペラペラの空は、それでも美しい色をしていました。わかっています、とわたしがうなずくと、先生は、相変わらずにやにやとして、白髪の混じった頭を掻きました。
「さあて、ほかにも取りに行くとしよう。夜は、昼間とはまったく違う色をしているからね」
わたしは、こくんと首を縦にふり、先生の隣に並んで歩き始めました。
先生の切り取った空は、先生のツナギのポケットの中にしまわれ、“あのはさみ”は、先ほどと同じ胸ポケットへ入れられていました。
わたしには、先生が次にどこへ向かうのか、見当もつきません。しかし、何も言わずに着いて行くことにしています。それが、先生とうまく付き合うコツのひとつなのです。
歩きながら、先生は別のポケットからたばことライターを取りだし、火をつけました。わたしは、視界を白く濁らせては消えていくたばこの煙が、嫌いではありませんでした。
突然、先生は道路の途中でぴたりと足を止めました。わたしもあわてて立ち止まり、先生の方を伺います。先生は、たばこをアスファルトの道路へ落とし、履き潰したぼろぼろのスニーカーで火を消しました。たばこの煙と、香りの余韻が消えたとき、代わりと言わんばかりに強く潮の香りを感じました。ガードレールのすぐ下は、すっかり暗くなった空を映す海でした。深みのある暗い青の海は、まるで底なんて存在しないように見え、わたしは、ガードレールから身を乗り出すのをやめておくことにしました。
海から目を離し、先生に、今度は何を切り取るのでしょうか、と尋ねました。しかし、先生は難しい顔をして、海を見つめています。
「ガードレールが邪魔だなあ」
先生が、そんなふうにつぶやいたのを聞いて、邪魔なら切り取ってしまえばいいのに、と思いました。すると先生は、人工的なものは切り取りたくないんだ、と微笑しました。
先生は、頭を掻いてため息をつき、場所を変えるために歩き始めました。
「お前が空を飛んでくれたら、助かるんだがな」
先生は、そう言ってわたしを見ましたが、もちろんわたしは、飛ぶことができません。ごめんなさい、と頭を下げて、わたしと先生は砂浜の方に歩きました。どうやら先生は、夜の海を切り取るつもりのようです。
砂浜には、すぐにたどり着きました。暗い波は、押したり引いたりを繰り返し、まるで何かを飲み込もうとする、巨大な生き物のように見えました。夜の海は、季節に関係なくひんやりしています。わたしは、思わず身体を縮こませました。先生も少し寒いようで、一日一本、なんて言っていたたばこに、火をつけています。
「どれ、ちょっとお前、中に入ってくれないか」
先生は、底なしの海を指差して言いました。わたしは、少しためらいましたが、言われたとおりにすることにしました。黙って言うことを聞く。これも、先生とうまく付き合うコツです。
底なしのように見える海に足を入れると、想像以上の冷たさで、悲鳴がこぼれてしまいました。しかし、こんなところで、ぼんやり立ち止まるわけにはいきません。さっさと足を進め、足の半分ほどが浸かる位置で、先生を振り返りました。しかし、もっと沖へ、と手を振られます。わたしは、冷えて感覚のなくなった足を酷使しながらも、沖へ進みました。
身体の半分が浸かり、がたがたと全身が震えているときに、ようやく止まってもいい、とのお声がかかりました。かじかんで、言うことのききにくい身体で振り向くと、先生との距離は、自分が思ったよりも近くありました。
「そのまま、海の上に立って」
わたしは、言われたとおりに海の上に登り、立ち上がりました。先ほどまで、海に浸かっていた足が外気に触れ、余計にひんやりとしましたが、我慢しました。
「お、浮いてるみたい」
先生が、本当に嬉しそうに、にっこり笑うので、わたしも嬉しくなりました。飛ぶことはできませんが、こうして、波の上に立つことはできます。それで、先生が喜んでくださるなら、わたしは何度でも立つでしょう。
「はい、じゃあ笑って」
先生は“あのはさみ”を取りだしながら言いました。わたしはもちろん、にっこりしました。先生が言うのなら、わたしにとって、それは絶対なのです。
そして、わたしは先生に切り取られました。
暗い海と暗い空は、まるでひとつの宇宙のようで、その中に、白いわたしが浮かんでいます。
先生は満足したように、わたしをポケットにしまいました。
---(了)
タイトル通りとしか言いようがない。強いて言えば“わたし”はわんこなイメージ。比喩でなく。
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