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人ひとりなんて簡単に丸のみできてしまいそうな大きな金魚が、周りをぐるりと囲んでいる大きな水槽の中をひらひらとたゆたう。水泡のあがるこぽこぽという音が怖いくらい大きく響く静けさに、きいんと耳鳴りがした。冷たい床には、ニヤリと嫌味な笑みを浮かべている観音様が描かれていて、あまりにも似合わないその表情にちぐはぐな印象を受けた。そこに呆然と突っ立っているおれに、ひんやりとした空気はまるで容赦がない。あっという間に手先がちかちかと痛くなった。ぐるぐるひらひらと大きな金魚は水槽を踊っている。天井を見上げると、鮮やかな花の絵がぎっしりと描いてあった。ここは一体どこなのだろう、ともう一度視線を前に戻すと、少し距離を置いていつの間にきたのか、あおい先輩がいた。
ニヒルに笑う観音様の上にすましたような顔で正座をしているあおい先輩は、どこを見ているのかわからない瞳をぼんやりと漂わせていた。前々から不思議な人だと思っていたが、驚くほどにあおい先輩はこの謎空間にマッチしている。
床、冷たくないですか、とおれが声をかける前にあおい先輩は口を開き、れおくん、とおれを呼んだ。どこを見ているのかわからなかった視線もいつの間にかおれに向けられていて、思わずドキリとしてしまい、とっさに返事ができなかった。するとあおい先輩はこぽこぽと水泡を吐きながら笑った。長くて黒い髪は海藻のようにふわふわと水中を踊っている。水の中だ、と認識するのに少し時間がかかり、認識したとたんにおれは息ができなくなった。水が肺に入り込んできて、ごぼっとむせる。大きな金魚はいつの間にか金色に輝いておれの隣を抜け、そのまま悠々とあおい先輩の後ろを通りすぎていった。むせては水が肺に入りの繰り返しで半溺死状態のおれに、あおい先輩はゆったりとした口調で、いつものようににこやかに話しかけた。水の中であるにも関わらず、あおい先輩は平然としていて、さらに、はっきりと話すことができている。溺れながらも、つくづく変な人だと妙に感心してしまった。
「あら、わたし人じゃないのよ」
おれの心を読んだようにあおい先輩は言う。
「人魚なの」
見ると、確かに存在していたあおい先輩の足は、人魚のそれに変わっていた。セーラー服の紺色のスカートから伸びる、極彩色のうろこがあまりにも滑稽で、おれは水泡を吐き出して笑った。
そして意識が遠退いた。
右手が、冷たい誰かの手によってぎゅっと握られたのがわかった。驚いて目を開くと、あの水槽の中ではなく、今度はこけの生えた大木の前にいた。歴史を感じる森の風景にほう、とため息が漏れる。きっと100年と言わず生きてきた森だろう。大木ばかりが鬱蒼と茂っているせいで太陽はほとんど隠れてしまい、辺りはぼんやりと薄暗い。それがさらにこの場所を神秘的なところに見せていた。
右を向いてみると、尾ひれが、また人間の足に戻ったあおい先輩が笑っていた。右手にぎゅっと力をいれられ、やはり手を握ってきたのはこの人かと思った。
「人魚だったんじゃないんですか」
おれが言うとあおい先輩はくすりと、いたずらっ子のように歯を見せて笑った。
「やあねえ。わたしは妖精なのよ」
そうして肩をすくめたかと思うと、ふわりとあおい先輩の体が浮いた。心なしか、あおい先輩の背中に半透明の羽が見えた気がする。そして上から覆い被さるようにおれの首へ腕を巻き付け、抱きしめるような体勢をとった。ひんやり冷たいあおい先輩の腕で、ぞくりと鳥肌がたつ。あおい先輩は体を浮かせたままおれの耳に口を寄せた。吐息がかかり、くすぐったくもドキドキする。
「逢えてよかった」
あおい先輩がそう言った時、目の前の、見たこともないような背の高い大きな青い花をつけた植物が、風もないのに揺れた。ふいに、首の辺りにかかるあおい先輩の腕が重みを無くした。不思議に思って見ると、あおい先輩の腕は薄く透けて、静かに消えていこうとしていた。
「ちょっと、先輩……?」
音もなく静かに光の粒子となるあおい先輩。
「あおい先輩、待っ、」
待ってください、と言い終える前にあおい先輩はおれの首から手を放し、向こう側が透けて見える体を目の前にさらした。青い花はまだ揺れている。相変わらずつかめない雰囲気の不思議なその人は、水をたらした水彩絵の具みたいな、ぼかした笑顔で言った。
「大丈夫よ、れおくん。これは夢なんだから」。
目を開けるとそこはおれの部屋だった。見慣れた天井に家具の位置も何もかも同じ。シミのある位置すら変わっていないそこに、あおい先輩は当然、いるはずがなかった。それはまず、ここは俺の部屋で、ここが現実であるからだ。そして何より、あおい先輩はすでに死人である。人魚でも妖精でもなく、この世界に存在しない人。懐かしいあおい先輩の声や不思議だった雰囲気を思い出しながら、おれはそっと首に手を当てた。
もう存在しないあの人のぬくもりは、残っているはずがなかった。
---(了)
ひたすら「不思議な感じ」にこだわって。イメージカラーは青紫。
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